第11回常念岳・焼岳大会

第11回登山フェスタを終えて

(公社)日本山岳協会顧問 元会長
大会主宰 坂口 三郎

 常念岳、焼岳、安曇野で実施された今年の大会も、全国から参集した多くの岳人と、地元のスタッフの協力、ご支援により盛会裡に終えることが出きまして、心から感謝している処であります。

 入山日の7月6日には、関東甲信地方の梅雨明け宣言がありましたが、常念岳一帯には梅雨前線の黒い雨雲がたれ下がり、北アルプスの景観を楽しむことは出来ませんでした。

 総班長を勤められた有明山案内人組合の前組合長塚田銀稲さんは、6日夜、所用があるとのことで、われわれ登山隊を小山まで案内、接待した後、午後4時頃でしたか、あの荒天の中を下山し、翌日のお別れ会には再び顔を出されました。私はその驚異的な体力、技術とその誠意に深く敬意を表したいと思います。

少年馬上過  世平白髪多

残躯天赦処  不楽是如何

 これは伊達正宗の有名な詩であります。四国の宇和島には正宗の息子、宗紀が造った天赦園という名庭園があり、市民の憩いと場になっております。私の現在の立場と申しますと、昭和25年、兄と二人で設立した会社の整理を今年全て終了し、完全に自由の身となり、残躯天の許す処となった訳であります。

大いに山を楽しみたい処でありますが、体力の衰えは目に余るものがあります。

しかし乍ら、まじめにトレーニングをして、皆さんとともにこのフェスティバルを少しでも永く楽しみたいと念願するこの頃であります。

 重ねてこのフィスティバルに参加された、すべての方に感謝申し上げ挨拶といたします。来年は蓼科山、北八ヶ岳でお会いしましょう。


第11回SMFフェスティバルに参加して

茨城県山岳連盟 (東御市出身)
Bコース1班班長 白石 忠男

 SMFフェスティバルも回を重ね、はや11回になりました。参加者も益々増加してきました。SMFは7月の第1週ということで、いつも梅雨が開けそうな時期であり、当日まで天気図とにらめっこしていました。今年もきわどいかなと思いつながら、水戸から常磐道〜北関東道〜関越道〜上信越道〜長野道と高速道路を乗り継ぎ、安曇野へまっしぐら約350km遠路はるばるとノンストップで皆様とお会いしたいとの思いでハンドルを握りました。安曇野へは、20年前正月の常念岳登行・偵察で何回もきたことがありましたが、いつのまにか大変立派な施設がたくさんできておりびっくりしました。また、今年の大会では、久しぶりに茨城から複数参加それも6名何と素晴らしいことです。

 1年ぶりに旧知の方々とお会いして懐かしくなりました。いいものですね。九州から東北と遠路から参加してくれた皆様一同集まり前夜祭が始まりました。坂口さんは今年82歳(?)とのこと、とても元気で、私もその年になるまで山に登れるかなと思いました。

 全国から集まった方々と楽しいひと時は、旧知の方々が集まっての歓談、音楽文化集団の神谷さんの伴奏による歌の集い等和やかに催されました。

 翌日は朝から曇り空、どうやら梅雨前線は上がらずに停滞している様子、ともかく常念岳、焼岳への登山は計画どうりで各自準備を整え、バスに乗り各登山口へ出発しました。私は焼岳登山の担当でしたので、新中の湯登山口までサラダ街道を一路沢渡方面に向かいました。新島々を過ぎて、釜トンネル入り口まではトンネルの連続でした。20年前まで、正月上高地に入山するために沢渡から釜トンネルを歩いて上高地へ入ったものです。新中の湯登山口へはつづら折りの道を上りました。新中の湯登山口は大変広く、多くの自動車が止まっていました。バスを降りて、登山の準備をして、私の担当する2班は出発する頃雨が強く降り始めましたので、雨具をつけて最初に出発しました。最初は樹林帯なので雨を感じなく、大汗をかいたので雨具を脱いで登りました。後ろを見ながら30分歩いて5分休憩のペースで急坂を越えるとベンチのある広場に着きました。天気が良いと焼岳が良く見えるのですが、今日は雨天のため、全然見えませんでした。ここからは、雪渓がでてきて高山らしくなり、また高山植物が現れ、心を和ませてくれました。稜線までは急坂でつづら折りを登り、稜線へ出ると強風で飛ばされるようでした。天気が良いと上高地、穂高岳、霞沢岳それに大正池がばっちりなのですが今日は残念でした。稜線から回り込み北峰の頂上に着きました。風、雨が強く頂上直下の風のない所で後発班を待ちました。しばらくして2班が頂上に着き、一緒に記念写真を撮りました。1班は全員の歩調が合わないようでした。下山を始め急坂を降りて、ベンチのある広場で他班を待ちました。全班の行動を確認して、新中の湯登山口に下山しました。下山予定時刻より1時間早くなったのでバスのお迎えを前倒しにしてもらい、山荘へ帰りました。翌日バスの運転手さんに聴いたのですが、私達のバスが中の湯トンネルを通過して10分位後、このトンネル内で交通事故があり、長時間交通止めがあったそうです。これも皆さんが頑張って登ったお陰です。感謝致します。夜は野外広場でバーべキュー、キャンプファイヤーと神谷さんの伴奏で楽しい歌を皆で楽しみました。キャンプファイヤーを囲みながらの大合唱は最高でした。

 翌日の朝食は事務局特製のバイキングでした。最高でした。朝早くから準備をしてくれた皆様に感謝します。朝食後、国営アルプスあずみの公園に行きました。公園は大変大きくて、素晴らしいでした。紅葉の秋に来たいと思いました。

 この素晴らしい第11回SMFフェスティバルの企画、運営に尽力を尽くしてくれた方々に多大な感謝を申し上げます。有難うございました。

 話変わって、今年の秋、茨城で全日登山大会が開かれます。詳細は茨城県山岳連盟のHPを見て下さい。茨城県は長野県と比べると低い山しかありませんが、良い山と沢は沢山あります。皆様の期待を十分満足させるものと自負しております。皆様、茨城へようこそ、お待ちしております。

 茨城山岳連盟ホームアドレス

    http://www3.ocn.ne.jp/~iba-gaku/


炊事場に響くうたごえ

歌声コーディネイト 神谷 ありこ

 学生時代、初めて一人暮らしを経験したのは、松本市岡田地区。浅間温泉も近く、高台にある下宿の西側の窓からは、常念岳が良く見えました。特に夕焼けを背景にした姿は四季を通じて本当に美しく、青春時代の思い出と重なり、今でも「胸キュン」の山です。

 10周年記念大会のご縁で今回2回目でしたが、温かくお声をかけていただき、最初から打ち解けた雰囲気で参加できました。初日の大広間でのうたごえでは、たくさんのリクエスト、各グループの皆様の盛り上げで、私自身とても楽しく伴奏させていただきました。普段のうたごえの時より、やはり「山の歌」の時は皆様の深い思い入れを感じました。「穂高よさらば」「雪山讃歌」…などなど、きっと歌う皆様の心には、実際に過ごされた情景が広がっているのだろうと思いながらピアノを弾いていました。

 二日目の啼鳥山荘の野外広場でのバーベキュー、準備段階から何度も空を見上げました。今にも降りそうな雲行き…スピーカーアンプ・電子ピアノのセッティングをどうしよう…雨が降ったら野外で歌を歌う気分にはならないかしら…と、ちょっと気分は後ろ向きでした。しかしそんな私の心配をよそに、雨の降る中、皆様立ったままでバーベキュー場横の薄暗い炊事場でなんと1時間半以上歌いました。狭いところで肩寄せ合って、顔は見えなくても後ろの方からとても素敵な声が聞こえてきます。心通わせるこの夜のうたごえは、キャンファイヤーの火とともに、忘れられないものになりました。

 やはり普段からこうやって天気のいい日も悪い日も、楽しく過ごせる「山オトコ・山オンナ(ガール?)」の皆さんの心意気を改めて感じることができました。

 昨年からの関わりですが、こういう便利な生活を離れた時に、なにかしら「人」そのものが輝く瞬間があることを学ばせていただいているように思います。

 また来年も、皆様の笑顔にお目にかかれること、楽しみに一年過ごしたいと思います。


小布施画家さんとのご縁

三重県山岳連盟
大川 吉崇

 昨年は、これが最後になりそうと弱気だった田中均氏から、常念岳登山に参加しませんかと元気百倍で誘いがあった。今年はそこに、高体連の部長を長くされていた、私より3歳上の西田勝氏が加わり、3人で坂口フェスティバルに参加した。

 安曇野の山懐にあるホテル、"ほりでーゆ四季の郷"に、7月5日全国各地から117人が集まった。坂口三郎氏の人柄と、世話をしていただく長野県岳連の賜物である。

 前夜祭パーティーの宿泊で、長野県教育委員会登録美術館"おぶせ藤岡牧夫美術館"の絵本作家であり、イラストレーターの藤岡牧夫氏を交えた4人部屋で組まれていた。懇親会の部屋に入ると、藤岡氏の原画10数点が飾られていた。表現や個性は違うが、原田泰治のように、自然と子供たちが描かれた作品の数々であった。失礼な話だが、飾られている作品が、同室の藤岡氏その人のものと懇親会に入ってはじめて知った。

 懇親会終了後、4人で部屋に戻る途中、1階のサロンにも藤岡氏のビエゾグラフが展示されているのでそこに移動した。話を伺うと、信濃毎日夕刊に、2003年から2010年まで「風にふかれて」と題して、8年間連載した作品の一部であり、新聞では、一つ一つに物語も掲載されたとのことであった。木曽駒ケ岳の麓の田道の土手で、縄跳びをしている子供たちの作品、常念岳を背景に広がる菜の花畑に、飛び交うちょうに乗った子どもたちの絵に興味をひかれ、後日2作品を送っていただくこととした。

 6日には、標高1323mの一の沢登山口から、常念小屋を目指した。

 我々5班は、今回の隊長で、冬のマッキンリー6000m地点で20年間風速測定を続けられた大蔵喜福氏を含む11人班。

 坂口会長及びわが田中氏を含み80代3人は私以上に気力・体力が優れてみえる。尾根筋に着く頃には猛烈な強風と横殴りの雨、この日の頂上行きは中止されるほどであった。翌朝4時半に頂上行きは出発。私は取りやめたが、西田氏はアノラック上下の雨具をつけて参加。出発直後、小屋の中でも判るほどの大雨と突風。

 とにかく今回の山歩きは、晴れと晴れの合間に行動した。下山した翌日は快晴。お蔭で、下界の猛暑知らずであった。

 縁とは不思議なもので、藤岡美術館には小布施と遠く行けないので、諏訪湖畔の原田泰治美術館に山帰りの8日に立ち寄った。そこで"高橋まゆみ人形展"が、会館50周年特別企画展で開かれていた。お蔭で、以前から訪れたい二人の作品を一気に堪能できた。

 次の小布施訪問が楽しみになった。


第11回坂口登山フェスティバルに参加して

栃木県山岳連盟
福田 幸一

 今回、初参加させていただき楽しい、楽しい3日間でした。「坂口主宰」には6年前より山やゴルフ、お酒にとお付き合いをさせて頂ありがとうございます。いつも健康で前向きな考え方、行動力に67歳の小生にはよきお手本があると思い毎日努力有るのみと自分に言い、聞かせて頑張っています。

 常念岳への登山は常念乗越辺りに高山蝶が二種類生息していることをテレビで知ってから高山蝶を見たい思いと、以前槍ヶ岳に登ったとき富士山を横長にした穏やかなシルエットの形をした山が常念岳と知り一度は登って見たいと思っていたところへ北見さんよりお誘いがあり今回参加させてもらいました。

 1日目の受付後「坂口主宰」の計らいで国営アルプスあづみの公園の施設を見学し安曇野の地形と歴史を案内人から立体模型で前常念、常念岳の位置と上杉と武田の川中島合戦などの説明を受け常念岳への理解が−つ増えた気がしました。

 田淵行男記念講演では高山蝶の話があり本州に九種類、北海道に四種類居ることに驚かされました。講演後明日高山蝶は見られるか聞きましたらまだ早そうとの答えにちょっとがっかりと再挑戦してみたい思いになりました。

 2日目の常念岳登山には一抹の不安を抱えながら臨みました。いつもなら宇都宮市の北に位置する古賀志山へ足慣らしに行くのですがそれもせず、心配していましたところ、それを知ってか塚田総班長さんのゆっくりとした歩きと雪渓を見ながらこまめな休憩に助けられ無事に登れたことを感謝致します。

 夕食前の小宴会、外の悪天候を気にしながらのアルコールと雑談楽しい思い出となりました。また夕食後、大蔵隊長の講演で登山人口、大陸ごとの文化、宗教からくる山への思い環境への配慮の違い勉強になりました。

 3日目の朝、常念岳登頂は体と相談して諦めました。雨の中の下山も無事登山口に着いたときは何とか二日間持ちこたえた脚に感謝。これからも坂口登山フェスティバルに参加させて頂くには登山靴をはく機会を増やさないと駄目だと反省しきりです。

 最後に私にとって登山より感動させられたのは歓迎会、お別れ会、ほかの山行では味わえない感動と経験をさせて頂きました。段取りをして下さった。松田大会実行委員長と長野山岳連盟関係者の方々に心から感謝申し上げます。


第11回坂口登山フェスティバルを終えて

実行委員会事務局
矢沢 裕子

 ご参加くださいました皆さん、本当にありがとうございました。

 10年ひと昔と言いますが、私がSMFのお手伝いさせていただいて10年が経ちました。私個人的にはひとつの節目の大会であったと感じています。昨年が10回大会で、記念大会と位置付けてイベント色強く開催されましたが、2001年、第1回目の飯綱登山時はまだ関わっていませんでした。2003年に全日白馬大会が開催され、参加者550名・スタッフ150名で2年準備期間を要しました。その前年、2002年に全日大分大会に参加させていただいたのが、全ての始まりだったことになります。大分の首藤前会長ともこの時からのお付き合いになります。この大分大会にも私のようなひよっこのでる幕はなかったのですが、申し込んでいた先輩役員の方に不幸があり、急遽の参加となったものでした。翌年の準備でTシャツを売らせてもらったり、全日大会の引き継ぎである聖杖戴冠の役目が松田会長(当時)にはありました。SMFは2004年に第2回目の黒姫山から毎年行われて来ました。このころはまだ坂口登山フェスティバル(SMF)などという呼び名すらありませんでしたし、前夜祭も坂口三郎主宰をふくめ、他県(遠路)の方にゆっくりしていただく為のもので、一種身内の飲み会程度のものでした。そのフェスタがこうして多くの方に参加いただけるようになって、親しまれ、山岳会関係の方々にも認知されるようになったことは本当に喜ばしいことです。

 第6回の天狗岳大会でのお別れ会で"ぼたん鍋"に目がくらみ、皆との会食が楽しくなってしまって…進行のお仕事を放棄してしまった私。もちろん大会終了後に大目玉をくらったことは言うまでもなく、この回以後、食事の席はもうけないでいただくことにしました。第7回針ノ木大会、第8回の白馬大池大会は80名からの参加をいただき、大所帯のリスクを心配したものですが、班ごとに必要な所に必要な人がいてくれて、班単位での行動がしっかり出来ていて、発生した問題も班ごとに対処してくれ、なんと素晴らしいこと!と一種の感動を覚えたものでした。皆の間にも一種の連帯感、仲間意識を感じられ、よくぞここまでにしていただけたものと、感謝、感謝の大会でありました。

 第10回、第11回…と仲間が増えていくことに何の不安もなかったのですが、特に今回の大会ではこれだけ多くの方々が集うのです、山の考え方、物の見方が違って当然のごとくであったし、天候の変化も大きく作用して予想外の出来事にも遭遇しました。危機感を持っていなかったわけではないのですが、予測不能なことが多々あり、自分自身の足りなさを考えさせられました。1年半かけて準備してきたことも3日弱で終わってしまいます。

 いろいろな状況を冷静に受け止め、皆さんの個性が活かせて、一人では味わえない登山の楽しさがあるフェスタにしたいと思うものです。年に1回のこと、普段はご無沙汰な皆さんの笑顔に会える、これを自分の支えに変えたいと思います。

 結局、来年の予定をこの報告書とともにご案内させていただくにあたり、実際はどんどん動いています。それも多くの方をまきこんで、協力していただいています。私も気持ちを切り替えて、向き合ってみたいと思います。もう少し力を抜いて。 来年の皆さんの笑顔にまた出会えると信じて。