第10回登山フェスタを終えて
大会主宰 坂口 三郎
(社)日本山岳協会顧問(元会長)
「朋あり 遠方より来る 亦楽しからずや」全国各地から湯の丸高原、高峰高原に集った山仲間のおよそ百名、年々その数を増して、盛大になりつつあることは誠に喜ばしいことであります。
この登山の発端は、日山協の会長を退任した時、松田さんから「一緒に山に登りましょう」と誘われたのが始まりでした。昭和53年の長野国体の折、脚繁く国体コースを歩きましたが、飯綱だけはいつでも登れると残していた山でした。15名位と登り、山頂の神社の前でご馳走になったチーズ・フォンデュが忘れられません。
福島、いわき市の吉田元さんが今年3月3日、逝去されました。昭和12年1月1日生まれ、享年75歳でした。昨年の栂池高原では、元気なお姿で、大震災の生々しい報告をされ、復興にとりくんでいると力強く述べられた情景が目に浮かびます。日本山岳会福島支部創立65周年の記念山行にパキスタン、カラコルムを計画し、体力増進の為のトレーニング中に急逝されたのでした。謹んでご冥福をお祈りいたします。
湯の丸高原ホテルの開会式では、地元東御市の花岡市長様から歓迎のご挨拶をいただき「私は宇部の出身であります」とお聞きし、山口県宇部市を中心に毎年大勢で参加している武永さんのクラブにとっては、最高のおもてなしの言葉であったろうと思います。また花岡市長も力強く感じられた事でありましょう。
天然記念物に指定されているという湯の丸高原のレンゲツツジは、花の時季といい、天候といい申し分なく、コマクサはじめ多くの高山植物とともに思う存分堪能することができました。
高峰高原ホテルでは、地元小諸市の蜩c市長様から歓迎のご挨拶をいただき、フランス料理にソプラノのディナーショー、マジックショーと趣向をこらした演出に感心しました。
最終日は雨天になりましたが、黒斑山、高峰山コースを予定どおり歩き、多くの植物を楽しむことができました。
今年の行事では、雪山讃歌の碑見学、池の平湿原散策、湯の丸―高峰林道の輸送などご苦労の多いことだったと思います。いつものことながら長野の皆様に感謝して筆を措きます。
第10回登山フェスタを終えて
『雪山讃歌』にまつわる思い出話
日本登山医学会
京都学士山岳会 中島 道郎
今回の、第10回坂口登山フェスィテバルに参加して、6月30日はA班の一員として、ツツジ平→湯の丸山→角間峠→旧鹿沢温泉のルートを歩いた。そこで一番印象に残ったことは、旧鹿沢温泉に降りて来た処に、平になった広場があり(昔の旅館の跡?)、そこに、もう昼食の用意が出来ていたことであった。その準備の周到さに舌を巻いたが、美味しかったお味噌汁の味は忘れられない。その広場と、そこからもう一段下がった車道との間の斜面に『雪山讃歌記念碑』が設置されているのを目の当たりにしたこともまた印象的であった。
この雪山讃歌という歌は、いつ頃憶えた、という記憶も無いくらい、若者なら誰もが知っている普通のポピュラーソングであって、後年、桑原武夫先生の運動によって、その著作権が京大山岳部に降りることになった、と聞いた時、「へエーッ!そうなの?」と驚いたのを憶えている。
京大山岳部(当時は旅行部)の冬期合宿は毎年妙高山麓・関温泉であったように聞いていたので、テッキリこの歌も関温泉ないし現在の笹ヶ峰ヒュッテ辺りで作られたもの、とばかり想像していたのだが、それが鹿沢温泉だったとは!そこにどういう因縁があったのか、今となってはもう確かめようのない話ではあるが、今回現地に来てみて、当時此処と京都にどういう繋がりがあったのか、不思議に思う。
京大学士山岳会の高村泰雄君によれば、彼もその辺のことを知りたく、いろいろ関係者に聞いて回ったらしいが、どうもハッキリしないようだ。
また、この歌は三高山岳部の部歌集に収載されている三高山岳部歌であるが、昭和24年の学制改革で、旧制三高は新制京大の教養課程に組み込まれたため、山岳部の歴史も、三高・京大両者の区別が付かなくなったまま、今に伝えられているように思われる。
話は変るが、いつの頃だったか、まだ立山登山バス道路がつけられてなかった頃のこと、私は単身で弥陀ヶ原に登った。泊まったのは確か弘法小屋だったと思うが、その小屋に一人、愉快なアルバイトの娘さんがいて、サービスに歌ってくれたその雪山讃歌は土地の言葉で、「オレタツァ、マツヌワ、スメヌェ―カラヌェー。」と、正確には記述出来ない不思議な発音であった。富山県らしいが、どの辺りの方言だったのか、説明が不完全でよく理解出来なかった。
いや、そればかりでなく、彼女の話は殆どが理解不能であった。「ツツカタスンが、ああして、こうして、」と話してくれるのだが、その単語の意味が判らないので、それを漢字で書いて貰ったら、なんと、『土方さん』であった。ドカタをふざけてツチカタと云った心算だったらしい。しかし、その山行に関する前後の事情は全く記憶にない。ただ、とにかくその“オレタツァ”が強く印象に残っている。
卒業して、京都市立病院呼吸器科勤務を命ぜられたが、その先任医師の一人に今は亡き藤原清則博士がおられた。ある時話題が雪山讃歌になり、『俺たちゃ街には住めないからに。』の“からに”は日本語としておかしい用語ではないか?と云う疑問が出された。
博士は九州長崎の出身で、そのような用語に不慣れだったようである。これは別に間違った日本語ではなく、理由を示すからを強調するために、助詞にを付けただけで、「俺たちは街には住めないが故に」と云うのと同じである、と反論したことであった。
私の友人に、岡山県人で、理由を示すのに「何々してからに」と、“からに”をよく使う人がいる。その地方の方言だろうか?藤原博士のもう一つの疑問は、「吹雪のする日は本当に辛い。」もおかしいのではないか?というものであった。するは自動詞だから、吹雪と云う現象を吹雪自体がする、と云うのはおかしい、という理屈である。言われてみれば確かに妙だ。しかし、「音のする方向」とか、「地鳴りのする山」と云う表現があるのだから、吹雪のする日があってもよいのでは?と反論したところ、彼の再反論は「音がする、地鳴りがする、という日本語はあるが、吹雪がする、という日本語は無い。」であった。議論の結末がどうなったか記憶にない。
この稿を草するに当ってこの命題をもう一度考察してみた。すなわち、その後に『の(が)する』が来る用語を並べてみると、音・地鳴り・匂い・気配・頭痛・寒け・稲光・・・などであるが、これらはすべて人間の五感、即ち感覚を表す名詞であり、脳がその感覚を感じ取る動きとして表すには、日本人の感覚では、それは自動詞『する』になるのである。では吹雪がすると云う場合の吹雪とはどんな感覚か?それは、降雪・強風・酷寒が単なる自然現象ではなく、その3者が同時に身体に襲ってくるその感覚、日本人ならその感覚を共有できる、とする信念があって初めて「吹雪のする日」を皆で実感出来る、ということを、この歌詞は謳っているのだと思われる。今こうして昔を思い起こすと、徒然草にある「今は亡き人なれば、かばかりのことも忘れがたし。」の心境になる。
世に長続きしている『仲良しグループの催し』を概観するに、それらには共通する一つの特徴がある。それは、一人の中心人物(Central
Figure)と優れた実務者(Manager)のペアがあるということである。すなわち、本会においては、坂口三郎元日山協会長と矢沢裕子事務局長が存在し、そしてそのまた下に多数のボランティアがいて、会を自主的に楽しんで運営しているという理想的はグループである。今後この催しが末永く存続されてゆくことを願って已まない。
10回
坂口登山フェスティバルに参加して
山口県山岳連盟 副事務局長
ハイキングクラブ山歩 武永 計介
今年も、フェスティバルに参加させて頂き、ありがとうございました。5回目の参加で、近年はスタッフの様に扱って頂き、重要な年中行事です。特に今年は、年末年始の「親子でアコンカグアに挑戦」の報告もさせて頂き、個人的にも想い出深い大会と成りました。
前日に山口県を出発した我々は、草津白根山をハイキング後、前夜祭が行われる、湯の丸高原ホテルに向かいました。到着後、早速会場でパワーポイントを使い「親子でアコンカグアに挑戦」の登山報告を1時間行わせて頂きました。多くの方に聞いて頂き、質問も有り楽しい報告会と成りました。引き続き講演会では、大蔵隊長の「マッキンリー気象観測への挑戦」のプレゼンが有り、「登山フェスティバル」の名に相応しい、アカデミックな講演会と成りました。
夕刻より、待望の前夜祭が始まりました。顔なじみの方々の中には、山口国体でお世話になった、東京都岳連寺内副会長・岐阜県岳連堀井会長もおられ、懇親を深めました。また、サプライズでは、開催地の東御市市長が宇部市出身との事で、山口のローカルな話題で盛上りました。
登山初日は、れんげつつじ満開の、湯の丸山に登りました。西日本では、全山を染めるミヤマキリシマに馴染みが有りますが、甲信越では、れんげつつじが全山を覆いつくすようで、初めて見て感動しました。下山後は、矢沢さんを始め女性スタッフの作られた、豚汁を美味しく頂き、池の平湿原のハイキングを楽しみ、高峰高原ホテルに到着しました。例年のお弁当より、おにぎりと豚汁の昼食の方が、数段美味しく、「矢沢さんの調理姿」にも感動しました。
最終日は、朝から生憎の天気で、浅間山の眺望は有りませんでしたが、大蔵隊長と黒斑山に登ることができ、大変光栄でした。ありがとうございました。
実行委員会の皆さんのお蔭で、楽しい3日間でした。今年は企画も盛りだくさんで、運営される事は大変だと思います。でも、みんなが待っています。第20回に向けて、頑張って下さい。
最後に坂口主宰を始め、坂口登山フェスティバル実行委員会の皆様に心からお礼申し上げます。
坂口登山フェスティバル
第10回を記念して
長野県山岳連盟 理事長
実行委員会総務部長 荻原 茂行
今回は当フェスティバル第10回を記念して、上信越高原国立公園の湯の丸と高峰の2つの高原をメイン会場に、レンゲツツジや高山植物など愛でながら雪山讃歌の碑を巡り、そして夜は素敵なディナーショーと、山と歌を満喫された大会となったのではないでしょうか。
初日は夕食の前に、山口の武永さんのアコンカグア登山と大蔵隊長のマッキンリーの貴重な体験やお話をいただき、また、夕食後には神谷ありこさんらの音楽と歌で楽しいひとときを過ごすことができ、ありがとうございました。
2日目はレンゲツツジが満開の中、湯の丸山へ登り、角間峠経由で西堀榮三郎さんの雪山讃歌の碑を見学した後、バスで池ノ平湿原へ移動し、稜線のガレ場ではコマクサの群落を間近で見ることができました。夜は宮澤美幸さん、寺島仁美さんの素敵な歌声と演奏によるディナーショー、ミッキー横田さんの華麗なマジックショー、そして別室では神谷ありこさんの演奏により全員での山の歌の合唱と、フェスティバル10回を記念すべき夜となったと思います。また、ゲストの皆様にはわざわざ遠くまでお越しいただき、誠にありがとうございました。
3日目は朝から生憎の雨となり、見通しが利かない中、高峰山と黒斑山の2つにコースを分けて登山を行いました。黒斑山から望む浅間山は迫力満点なのですが、天気が悪く本当に残念でした。
皆さんのご協力のおかげで、3日間大きな事故もなく、無事登山を終了できたことに感謝申し上げます。
最後に2日目の夕食時と3日目の朝食及び出発時に慌ただしく、また連絡不行き届きでご迷惑をおかけしましたことを改めてお詫び申し上げます。
来年はこの反省をもとに、より大会運営と安全登山に心がけて参りますので、引き続きよろしくお願いいたします。
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